サリネ・ジェンチャラット 「私は誰でしょう?」



 皆さんは自分のアイデンティティーの問題についてお考えになったことがあるでしょうか。「アイデンティティーの問題」というのは自分が誰かということについてあまり分からないという問題です。  

二ヶ月ほど前に、私はニューヨークのコロンビア大学へ「イーカス」(ECASU)というEast Coast Asian Student Union、 つまり米国東海岸アジア系学生の集まりの例年の会議に出席して来ました。実は、この会議はアジア系アメリカ人のための会議ですが、アジア系アメリカ人では ない私にも大いに役だったと思います。これまで私は自分が誰かということについてあまり問題があるとは思っていませんでしたけれど、この会議に出席してか ら、タイ系とか、中国系とか、日系とか、アジア系アメリカ人は皆自分が誰であるかということがはっきりしていて、自分に誇りを持っているようでした。です から、私は自分が誰かといことについて考えて来ました。私は誰でしょうか。  

両親も私もタイで生まれましたので、私は国籍では自分がタイ人だと思っています。いつでもタイに住んでいますし、タイ語が母国語ですし、毎日テレビでも、 新聞でも、どこでも、タイの習慣のことについて見えますし、聞こえますし、私にとってタイの習慣は主な習慣で,自分がタイ人だと言います。  

しかし、実際には、祖父母が中国からタイにうつって来ましたので、家では家族は中国の習慣に従っています。家ではほとんど全部が中国の習慣ですから、私は タイに住んでいますけれど、タイの習慣より中国の方がずっと分かると言えます。例えば、私の家族は毎年中国の新年を祝い、二月ごろになると中国の新年を祝 うための料理とか色々なものがたくさんあります。その上、家族は中国人と同じように先祖を大切にしていますし、家族を呼ぶときも中国語の呼び方を使ってい ます。中国語が出来なくても、家では中国の生活です。ですから、私は自分が全くのタイ人であると思うことが出来ません。私は中国系タイ人です。

けれども、中国系タイ人だと言ってもそれだけとは限りません。中国とタイの習慣以外の他の習慣も私にとっては大切です。三才の時から日本の漫画の本をよく 読んで日本の生活について色々なことを学んできた私は日本の習慣と日本語に強い興味を持つようになって来て、今は日本語をがんばって勉強しています。それ に大学の日本学生会で日本のぼんおどりを習ったり、日本の習慣について知れば知るほど、日本の習慣が今の生活にやくにたつようになります。

例えば、私はタイ語でも、英語でも、「ありがとう」という時も「すみません」と言う時も、いつでも日本人のようにお辞儀をしますし、ご飯を食べる前にはい つでも「いただきます」といます。小さなことですけれど、いつでもどこでもそうするところを見ると日本の習慣も私の生活にとって大きな一部になって来たよ うです。 

その上、中学の五年生の時から、私はアメリカの制度にもとづいた国際学校へ通っていましたので、学校ではほとんど全部アメリカの習慣ですごしました。アメ リカ人の先生もいらっしゃいましたし、授業は全部英語で、アメリカの教科書を使いましたし、アメリカの文学を読みました。 今も留学生としてアメリカで勉 強し、八年間以上アメリカの教育を受けていますので、私にとってアメリカの習慣はタイや中国の習慣と同じように大切なものになって来ました。

私は色々な習慣で育って来ました。タイに住んでいることからのタイの習慣、家族の中国の習慣、日本の漫画の本を読んでいることからの日本の習慣、学校での アメリカの習慣。これは私にとって全部大な習慣です。これまで、私は自分の習慣のアイデンティティーについてよく分かりませんでした。私は自分の国籍によ る習慣が一つだけあった方がいいと思いましたが、今はそういう考えは正しくないと思うようになってきました。私は国籍はタイ人ですけれど、中国と日本とア メリカ習慣がなければ、私は本当の私ではないと思います。自分が本当に誰かということについてよく分かって、自分の国籍のことに誇りを持っているのは大切 ですけれど、自分の習慣は国籍で限られないほうがいいと思います。私は自分が中国系タイ人だと誇りをもって言えますが、同時に日本やアメリカの習慣を身に 付けた自分にも誇りを感じます。